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第36話 岐阜帰還

戦え!官兵衛くん第36話
 京都に戻った信長は、本拠地岐阜との連絡が寸断される中、千草峠を越えて伊勢経由で岐阜への帰還を計画します。
 途中、鉄砲の名手の杉谷善住坊に狙撃されます。杉谷善住坊は、近くから鉄砲を2発撃ちますが、信長をかすめただけで、暗殺は未遂に終わり、岐阜への帰還を果たします。
 織田信長は、この事件の後にも、雑賀衆に狙撃され、負傷することになります。また、美濃の斎藤氏、伊賀衆(2回)にも狙撃されたとも言われています。
 合計5回は狙撃されたことになりますが、戦場で信長を狙ったが、届かなかったといった物も合わせると、狙撃は全部で何回になるのかはわかりません。

 柴田勝家等に、岐阜と京都の連絡確保のため、近江南部の回廊の死守を命令して、岐阜への帰路につきますが、勝家等は立派に期待に応えます。次回以降、岐阜から出陣した信長本隊と合流して、浅井・朝倉への反撃が始まるのですが、三好三人衆の調略が成功してしまいます...

 しばらく、信長の話が続きますので、官兵衛はあまり話に絡んできません。官兵衛の行動も中央の情勢に対応したものになっていきますので、やむを得ないのですが、題名を「戦え!官兵衛くん。」から「戦え!信長くん。」に変えた方がいいかもしれませんね(^^;)
 45話から、再び播磨の話になります。
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第35話 金ケ崎撤退

戦え!官兵衛くん第35話
 越前出陣中に、足利義昭の強い意向により、永禄から元亀に改元されます。この改元は、信長の反対を押し切ってなされたものであり、義昭が将軍権力を確立しようとする強い意志を持っていたことが感じられます。
 既に将軍義昭と信長の対立の火種がくすぶっている状況でしたが、少なくともこの時期には決定的な対立は発生していません。
 小説等では、義昭の指示で浅井長政が信長に敵対したように書いてあるものもありますが、事実ではないでしょう。

 越前からの撤退に際しては、木下藤吉郎、池田勝正、明智光秀達が活躍し、織田軍は無事に帰還することができました。
 しかし、池田勝正、明智光秀は後に失脚してしまうためか、手柄は木下藤吉郎が独り占めしているような状態です。徳川家康も撤退戦で活躍した等とも言われていますが、徳川幕府のねつ造のにおいがします。

 また、近江では、大規模な一揆が発生し、信長は本拠地岐阜との連絡が遮断されてしまいます。ここに、信長は、最大の危機の一つを迎えます。
 織田信長は、状況を観察したり、危険を回避する本能的なカンが非常に優れた人物ですが、その反面、事前にリスクを避けようとする意識に乏しいとしか考えられないところがあります。隙が多いとみられてしまうのか、信長は、暗殺や謀反を何十回とされてしまいます。
 しかし、信長は危機をことごとく回避し、信長の暗殺に成功したのは、たったの1回しかありません(^^;)

   

第34話 朝倉征伐

戦え!官兵衛くん第34話
 織田信長は、上洛要請に応じなかった越前の朝倉義景を討伐すべく、越前に侵攻します。

 朝倉氏と織田氏は、室町幕府の管領である斯波氏の重臣という立場でした。
 斯波氏は越前、尾張、遠江三国の守護で、幕府のナンバー2である管領を歴任する家柄でしたが、お家争いが発生し、二派に分裂してしまいます。
 応仁の乱では、斯波義敏が東軍、斯波義廉が西軍に分かれて戦います。
 当時の朝倉当主の朝倉孝景(7代目、2コマ目の左端の人)は、最初は西軍についていましたが、播磨守護の赤松政則や赤松重臣の浦上則宗の勧誘を受け、越前守護就任の餌につられて東軍に寝返ってしまいます。
 東軍の越前守護は斯波義敏でしたが、稀代のバカ殿である斯波義敏は、味方のはずの東軍陣営によって、守護職を剥奪されてしまうことになります(正確に言うと、朝倉孝景は、一代限りの守護並という微妙な扱いだそうです)。
 こうして、朝倉氏は同じ斯波家臣の織田氏より、守護という一歩先んじる地位を手に入れることになります。
 ちなみに斯波氏は、バカ殿同士のお家争いの末に早々と衰退することになり、越前から朝倉氏、尾張から織田氏、遠江を侵略した駿河の今川氏と、斯波氏の領国から強力な戦国大名が誕生することになります。
 逆に名将同士がお家争いをしていた畠山氏は、なかなか決着がつかず、延々とお家争いをすることになり、領国は混乱してゆくことになります。

 本来、朝倉氏は尾張守護代の織田氏(信長の家系は、2コマ目の真ん中の織田敏定の兄弟か身内かなんかの子孫じゃないかと思います。したがって、守護代の別れの家系ではないでしょうか。)と同格かちょっと下という感じの家柄でしたが、守護という家柄を手にしてしまうと、同輩だったはずの織田氏に対する優越意識が芽生えてきます。
 信長への対抗意識や、自分が義昭の面倒を見ていた過去があることといったことから、織田の下方に立つことを良しとせず、上洛に応じなかったのかもしれません。

 越前攻略は最初のうちは順調に進みますが、妹婿の近江の浅井長政が裏切ったことから撤退を余儀なくされてしまいます。信長は、松永弾正の手引きにより、朽木経由で京都に逃げ帰ります。
 

最新の精錬技術 ~戦国時代の銀山・金山の開発~

 日本の銅には若干の銀が含まれているものがありましたが、日本には銀を取り出す技術が無かったため、この時代の少し前までは、銅として中国に輸出されていました。
 中国では、銀が含まれている分の値段を加味して、高い値段で日本の銅が取引されました。中国で銅を売ったお金で永楽通宝等の中国の銭を買入れ、日本に持ち帰ると、莫大な利益を得たと言われています。
 銅の地金を売って、銅の銭を買うと利益が出るというのも面白い話ですね(個人的には、これが日本国内で銭が鋳造されなかった理由の一つではないかと思います)。

 中国・朝鮮やヨーロッパから最新の技術が導入されると、日本でも銀の抽出が可能となり、銀産出の大ブームが始まります。石見銀山や生野銀山も戦国時代に大規模な開発が始まりました。金山も戦国時代・江戸時代初期に開発された鉱山が多いです。

 海外からの新しい精錬法は、鉛や水銀を使って金や銀を抽出するという手法ですが、体に悪くないのでしょうか...
  

第33話 山名祐豊の陰謀 その2

戦え!官兵衛くん 第33話
 永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を旗頭に上洛を果たします。第17話
 しかし、自由都市堺は信長に反抗的な態度を取り、信長からの矢銭(軍資金)の支払いも拒否します。当時、堺と三好氏は友好的な関係を築いていたからです。
 信長が畿内を平定すると、信長に友好的な今井宗久等が堺の主導権を握ることになります。第18話
 今井宗久は信長に接近して、大きな利権を得ますが、最大の利権が生野銀山です。国際貿易港の堺が成立しうるのも、国際通貨である銀があればのことです。ひょっとすると、但馬侵攻には、堺の生命線である生野銀山を押さえ、堺の反信長勢力を完全に駆逐するという目的もあったのかもしれません。
 播磨・但馬侵攻を通じて、親信長派が生野銀山を握ることになり、堺は信長のスポンサー、資金源として密接な関係を結ぶことになります。
 
 この後、信長は四方を敵に囲まれ、播磨・但馬に直接、手を出すことが難しくなります。そのような情勢で生野銀山を確保しようとすると、但馬の山名祐豊が好き勝手な事をしようとも、目をつぶらざるを得ないという状況に置かれることになります(^^;)

第33話 山名祐豊の陰謀 その1

戦え!官兵衛くん 第33話
 1542年、但馬の生野銀山が開発されます。昔から生野には銀の鉱脈があることはわかっていたようなのですが、鉱石から銀を取り出す技術がなかったようで、中国・朝鮮の技術が導入され、鉱山の開発が始まります。
 生野銀山の開発には、石見銀山の経営に携わっていた尼子系の技術者が関わっていたようです。
 
 当時、尼子氏は毛利氏に滅ぼされていたため、尼子再興と毛利打倒を目指して、尼子遺臣が反毛利活動を行っていました。同じく毛利に反抗する山名祐豊は生野銀山からの潤沢な収益を元に尼子遺臣に資金援助を行っていました。
 尼子遺臣の活躍に悩まされた毛利氏は、織田信長・足利義昭に但馬の山名祐豊の攻撃を要請します。第21話
 織田信長配下の木下藤吉郎、池田勝正等は永禄12(1569)年8月に但馬に侵攻し、山名祐豊を追い払います。第22話

 しかし、山名祐豊は信長派の堺の商人、今井宗久の口添えにより、多額の礼金を支払って信長に復権を認められます。
 復権後も山名祐豊は潤沢な資金をバックに、毛利氏に反抗する尼子遺臣への援助を続け、毛利氏と織田氏の対立の原因の一つを作ります。
 尼子遺臣の件以外にも、山名祐豊の行動により騒動が引き起こされることになりますが...

第32話 上洛要請

戦え!官兵衛くん 第32話
 永禄13(1570)年3月から4月にかけて、織田信長の要請に応じて、各地の大名が上洛します。
 その中には、播磨の信長派の別所氏や備前の宇喜多直家の姿もありました。
 
 信長は、堺衆の仲介である大名と面会しますが、この大名により、いろいろな混乱が発生することになります。

 ところで、信長が上洛戦をおこなっている間、武田信玄は徳川家康と一緒に今川領の分割に精を出していました。信長は武田信玄に話をつけ、今川領分割という餌をばらまき,後顧の憂いを絶った上で上洛していたということですね。
 今川義元を討ったのは織田信長ですが、今川領という勝利の果実に目をくれずに、上洛を目指す信長の戦略眼は凄まじいものがあります。

第31話 播磨侵攻2回目

戦え!官兵衛くん 第31話
 永禄12年(1569年)11月、伊勢攻略にケリをつけた信長は再度、池田勝正率いる摂津衆を播磨に侵攻させます。
 しかし、龍野の赤松政秀が浦上宗景に降伏してしまったことから、播磨侵攻軍は播磨から撤退してしまいます。
 これで、小寺政職、小寺(黒田)官兵衛達は、当面の危機を逃れることに成功しました。

 この時、赤松本家は織田信長に形だけ臣従し、浦上宗景と敵対する格好だけはとったようですが(^^;)、その後も織田信長に敵対する側についたりして、要領よく戦国の世を乗り切ります。赤松本家当主の赤松義祐は、なかなか世渡り上手な人で、智謀Bくらいに評価しても良いかなと思います。

 龍野赤松家の赤松政秀は翌年に浦上宗景に毒殺され、龍野赤松家は衰退しますが、相生までは浦上宗景、室津は龍野赤松家の領域のような書面が残っていたりしますので、龍野周辺で細々とやっていたような形跡もあります。
 龍野赤松家は、赤松政秀の嫡子、赤松広貞が跡を継いだ後、広貞は早逝し、幼い弟の赤松広英(斎村政広)が龍野赤松家を継ぎます。継承の経過の詳細は不明ですが、何があったのでしょうか(^^;)

 今回で播磨・但馬侵攻篇は終りで、次回からは激動の永禄13年(1570年)がスタートします。
 足利義昭、織田信長は各地の大名を上洛させ、臣従を誓わせようとします。播磨からも別所長治、別所重宗が上洛します。浦上宗景に降伏したはずの備前の宇喜多直家も上洛します。さらに、但馬の某大名も密かに上洛し、信長に面会しています。

 しかし、ある大大名が上洛命令に応じなかったことから、織田信長の天下布武の計画が大きく狂っていきます。

第30話 宗景侵攻

戦え!官兵衛くん 第30話
 織田軍が撤退した間隙を突き、浦上宗景は大軍で龍野城を包囲します。

 一方、伊勢では、籠城戦に音を上げた北畠具教と織田信長との間に和睦が成立し、織田信長の息子の織田信雄が北畠氏の養子となります。これにより、織田方に軍事的な余裕が生まれ、織田方は、再度の侵攻が可能となります。
 次回は、播磨・但馬攻略篇の最終回です。

 ところで、小寺方の庄山城(姫路市飾東町)は、織田方に占領され、小寺攻略の拠点とされます。庄山城と小寺の本城の御着城、姫路城は目と鼻の先にあり(それぞれ、歩いて1時間くらいの距離)、以後、数年にわたって姫路が織田方と反織田勢力の最前線となり、毎年のように合戦が発生することになります。

 いい加減な小説では、官兵衛は織田信長に臣従するまで、平和な播磨で才能を持て余しながら、天下の構想を練り、竹中半兵衛の活躍にあこがれていたなんて書いてありますが、大ウソです(^^;)
 畿内で大きな事変が起こる度に、播磨も官兵衛も時代の荒波にもまれていくことになります。

第29話 播磨撤退

戦え!官兵衛くん 第29話
 永禄12(1569)年8月、織田信長は2万の大軍を播磨・但馬に侵攻させますが、織田軍は、一部の部隊を残して播磨から撤退して行きます。

 浦上宗景の重臣の備前の宇喜多直家は、織田軍の侵攻に合わせて、浦上宗景に反乱を起こしますが、織田軍が撤退すると、即座に浦上宗景に降伏してしまいます。
 浦上宗景は、織田信長・足利義昭、龍野の赤松政秀との対決が続いていることから、宇喜多直家を赦免せざるをえない状況にあり、やむなく宇喜多直家の帰順を認めます。

 なお、帰順に際して、宇喜多直家は自分の娘を浦上宗景の息子、浦上宗辰の妻とさせたとも言われています。
 もっとも、宇喜多直家については、極悪人とされてしまったので、面白半分の作り話が事実のように伝えられていることも多く、学術上は浦上宗辰の存在自体が疑問視されています。

 宇喜多直家の子の宇喜多秀家は、豊臣政権時代に重用され、関ヶ原の合戦でも西軍の雄として活躍します。
 このため、徳川時代になると、幕府ににらまれるのを防ぐべく、多くの大名家が、宇喜多家との関係は「なかったこと」にしてしまいます。
 そうなってくると、作り話がますます幅を利かせるということになってきます... 
 
 宇喜多秀家が勝ち組の側についていれば、話は変わっていたのでしょうね(^^;)
 

第28話 伊勢南部攻略

戦え!官兵衛くん 第28話
 信長は、前伊勢国司北畠具教の弟、木造具政が内通してきたことから、伊勢侵攻を企てます。
 8月20日、信長は大軍で伊勢に侵攻し、諸城を落していきます。ちなみに、木下藤吉郎は8月26日、緒戦の阿坂城略戦で負傷しています。
 8月27日から北畠具教が籠る大河内城を攻めますが、9月8日に強攻策が失敗し、包囲戦を余儀なくされます。
 織田信長は、攻城戦があまり得意ではなく、この後も城攻めには苦労しています。信長は、自分の苦手な攻城戦に対して、攻城戦が下手な武将でも城を攻略できる作戦を考え、実行していくことになります。秀吉や官兵衛達は、信長の手法を学び、さらに発展させていくことになります。
  
 伊勢の早期攻略が難しくなったことで、播磨・但馬と伊勢の二正面作戦を維持することが難しくなりました。信長は、播磨・但馬に展開する部隊を一時撤収させることになります。
 
 信長の伊勢での苦戦により、官兵衛は危機を乗り越えることになりますが、幸運を呼び寄せられたのも、命がけで青山合戦を戦い、活路を切り開いたことがあってのことです。官兵衛が、絶望的な状況の中でも、自分ができる最善を尽くしたからこそ、奇跡を呼んだと言えるでしょう。

 次回、播磨・但馬侵攻は大きな展開を見せます。

 ところで、北畠具教の肩書が「国司」となっていますが、守護の誤植ではありません。国司は朝廷の地方官ですが、北畠氏は南北朝時代に南朝から国司の地位を認められて、伊勢一帯を支配していました。南北朝統一後も勢力を維持していたため、幕府の「守護」ではなく、朝廷の「国司」の肩書で伊勢を統治していたという訳です。
 

第27話 青山合戦(青山の戦い)3

戦え!官兵衛くん 第27話
 復讐心に燃える黒田官兵衛達は、大損害を受けたにもかかわらず、すぐに逆襲に転じるという奇策で、赤松政秀の陣を攻撃します。
 さすがの赤松政秀も、数時間前に打ち破ったはずの官兵衛の軍が逆襲してくるとは予測できず、大敗北を喫します。
 これで、官兵衛は窮地を脱しましたが、被害も甚大なものでした。

 作画の関係で、青山合戦(青山の戦い)をかなりコンパクトにまとめていますが、実際には何回かの戦闘があったようです。
 また、英賀衆も最後まで協力したと思いますが、資料で確認できなかったので、省いています。
 英賀衆は、官兵衛の命の恩人ということになりますが、小寺家が本願寺と敵対する織田信長方に転じたために対立し、数年後の英賀合戦では小寺軍と直接対決することになります。
 
 英賀合戦でも官兵衛は「10倍の敵」と戦うことになりますが、敵の数を盛り過ぎですよ(^^;) 

青山合戦(青山の戦い)と鋳物師

 青山合戦(青山の戦い,青山・土器山の戦い)の日時には、いろいろな説がありますが、このブログでは永禄12年(1569年)8月9日という説に拠っています。
 「戦え!官兵衛くん。」のマンガ本編はこちらをどうぞ⇒第25話
 青山合戦の舞台はこちらをどうぞ⇒青山古戦場

 8月9日の戦闘に関して、姫路の野里(姫路城の北の地域)の鋳物師、芥田氏に対して、官兵衛の主君小寺政職からの感状が出されています(NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第5話「死闘の果て」では、戦いの日付が変わっています。姫路市の案内看板は芥田氏への感状を元に作成されていますので、某ドラマよりずっと史実的な根拠があります(^^;))。
 芥田氏は、鋳物師の元締めで、半分土豪・半分職人の棟梁といった性格の一族です。兵農分離が途中だった時代なので、武士・職人の身分がはっきりしない階層も、まだ大勢いたようですね。

 赤松政秀とは、何度も衝突を繰り返していますが、一番、大きく、激しかったのが8月9日の青山合戦です。もし、青山合戦での赤松政秀の敗北を受けて、木下藤吉郎が但馬からの撤退を余儀なくされたというのが実態であれば、日本の歴史にかなりの影響を与えた合戦ということになります。

 その後、姫路は、木下藤吉郎改め羽柴秀吉が領有することになりますが、芥田氏率いる姫路の鋳物師は天下人秀吉と共に飛躍します。
 「君臣豊楽」「国家安康」の銘で有名な方広寺の鐘も芥田氏率いる姫路の鋳物師が作りました。
 方広寺の鐘も歴史を動かすことになりますが(^^;)

第26話 青山合戦(青山の戦い)2

戦え!官兵衛くん 第26話
 龍野赤松家の赤松政秀の攻撃により、官兵衛達は大損害を受けます。
 それにもかかわらず、官兵衛は負傷している家臣・家来達に赤松政秀の陣への攻撃を命じます。

 まともに戦えるような状態ではない兵も多く、死を覚悟しての突撃でした。
 官兵衛の心に、赤松政秀に室津城で理不尽に妹を殺された怒りがよみがえります。第3話
 家臣達にも、室津城で肉親を殺された者が大勢いました。復讐心が、傷ついた兵を戦いに駆り立てます。

第25話 青山合戦(青山の戦い)1

戦え!官兵衛くん 第25話
 小寺本隊、赤松本家が動けない隙を狙い、龍野赤松家の赤松政秀は3000の兵で姫路の官兵衛を攻撃します。
 官兵衛は300の兵で立ち向かい、姫路城の北西の青山付近で、一旦は撃退に成功しますが、赤松政秀の反撃を受けてしまいます。独立勢力である英賀衆が援軍に到着したため、九死に一生を得ますが、大損害を被ってしまいます。
 
 英賀衆というのは、姫路城の南西の英賀を拠点とする一向宗の集団です。官兵衛の主君の小寺政職が一向宗の門徒であること、官兵衛の姉(か妹)が英賀に嫁いでいたことから、小寺家とは友好関係にありました(もっとも、後で敵対することになりますが...)。
 英賀衆だけではなく、瀬戸内海周辺の海の民は一向宗の信者が多く、航路沿いに門徒のネットワークを形成していました。この当時は、沿岸の港で風待ち・潮待ちをしながらの航海でしたので、海の民同士のつながりが非常に深かったということですね。

 ところで、赤松政秀の軍勢を3000と書いていますが、領地の石高等から考えて、実際には1000くらいではないかと思います。黒田家の記録では、敵の数を膨らませる傾向にあるようです(^^;)。

第24話 播磨・但馬侵攻3

戦え!官兵衛くん 第24話
 伊勢の木造具政が信長に内通したことから、信長は南伊勢への侵攻を企てます。
 信長は但馬の木下藤吉郎を伊勢に転進させますが、前後の出来事を箇条書きにすると、
 永禄12年8月 播磨・但馬侵攻
 8月9日 青山合戦
 8月13日 木下藤吉郎、但馬撤退
 8月20日 信長軍、伊勢への進軍を開始
 8月26日 木下藤吉郎、伊勢の阿坂城で負傷
 という流れになります。

 木下隊の但馬撤退が当初からの予定だったのか、青山合戦での織田方の敗北を受けての退去だったのかは、断定が難しいですが、もし、木下隊の撤退が青山合戦の結果を踏まえての予定変更だったとすると、日本の歴史にかなりの影響を与えた戦いだったということになりますね。

 個人的には、信長が生野銀山というドル箱を維持せずに但馬から退去するという作戦を立てていたというのは、ちょっと不自然な気がするので、青山合戦による予定変更の可能性も結構あるとみています。

 ところで、上洛直後、木下藤吉郎は京都の民政にも携わっていました。その上での軍事活動なので、織田信長は、本当に人使いの荒い主君ですね(^^;)

青山古戦場

 官兵衛と龍野赤松氏の赤松政秀の対決(青山の戦い、青山・土器山の戦い、青山合戦等と呼ばれています)の舞台となったのが、姫路市青山です。
 最近、青山に行く機会があったので、青山古戦場跡を訪問してみました。
 場所はこちらです。→ 青山古戦場跡案内坂
 今では、すっかり住宅地になっていますので、姫路市民にも450年前に激しい戦いがあったということを知らない人も多いのかも。

青山古戦場

 大河ドラマに合わせて整備され、案内板も平成25年の5月に新しくなっていました。
 以前の案内板は、織田軍の播磨侵攻も説明してあったのですが、「黒田官兵衛が信長と戦ったと書いてあるのは間違いじゃないか」との問い合わせがあったのか、かなり簡略化されています。
 新しい案内板では、織田信長との関係が書いていないので、青山合戦が単なる国人間の抗争のように思われてしまいます(^^;)

 日本の歴史への影響力だけみると、晩年の関ヶ原の合戦前後の九州での活躍よりも、播磨時代の活躍の方が、ずっと大きかったんですよ(九州の活躍は結果的に不発に終わりましたので...)。
 快進撃を続ける上洛後の織田信長に最初に土をつけたのが、黒田官兵衛なんですよ(*^-^*)

案内看板
 
  ちなみに三日月の館様のブログに前の案内板が載せてありましたので、比較してみてください。
 青山合戦古戦場(兵庫県姫路市)

 わかりやすさを取るか、詳しく説明する方をとるか難しい選択ですね。
 戦え!官兵衛くん。本編の青山合戦(青山の戦い)はこちらをどうぞ⇒第25話

追記
 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第5話「死闘の果て」では、青山の戦いは、永禄12年の5月と6月という設定になるようです。
 姫路市に「日付が違う」といった連絡が入ったりするのでしょうか(^^;)

第23話 播磨・但馬侵攻2

戦え!官兵衛くん 第23話
 永禄12年8月、織田軍は播磨・但馬への侵攻を開始します。
 龍野の赤松政秀、東播磨の別所氏等、親信長・親義昭勢力も協力し、播磨討伐軍は快進撃を続けます。

 龍野の赤松政秀と対立していた備前の浦上宗景は、配下の宇喜多直家が織田軍の侵攻と合わせて、浦上宗景に反抗したため、浦上宗景は対処に追われてしまいます。

 主君の小寺政職は赤松本家の赤松義祐とともに置塩城(姫路市夢前町)に籠城し、姫路で孤立無援となった官兵衛に危機が迫ります!

リンク~幕末多摩・ひがしやまと~を追加させていただきました。

イッセーさんのブログ「幕末多摩・ひがしやまと」をリンクさせて頂きました。
非常に面白くて、歴史好きにはたまらないブログです(*^-^*)
特に新撰組ファンにおすすめです。
幕末多摩・ひがしやまと

第22話 播磨・但馬侵攻1

戦え!官兵衛くん 第22話
 永禄12年(1569年)8月、織田信長と将軍足利義昭は、反抗的な播磨の小寺政職と尼子遺臣を援助する但馬の山名祐豊を討伐するため、播磨・但馬の攻略を実行します。
 木下藤吉郎、摂津の池田勝正等に率いられた2万の軍勢は、東播磨の別所氏や龍野の赤松政秀と協力して、播磨の反将軍&反信長派の拠点を落していきます。

 但馬攻略部隊は北に向きを変え、但馬の拠点を落とし、生野銀山を占領したため、山名当主の山名祐豊は一旦、逃亡することになります。

第21話 尼子再興

戦え!官兵衛くん 第21話
 毛利氏に滅ぼされた尼子の遺臣は、毛利氏に反抗を続けます。
 大友宗麟と山名一族の支援を得た尼子遺臣は、毛利軍が北九州に出兵した隙を狙い、出雲で蜂起します。

 尼子遺臣の勢力に悩まされた毛利氏は、友好関係(当時)にある信長と将軍足利義昭に但馬の山名祐豊の討伐を依頼します。但馬征討と龍野の赤松政秀支援を目的に、信長は播磨・但馬攻略を開始します。

 次回、播磨は戦乱の渦に巻き込まれます!

第20話 上洛阻止作戦

戦え!官兵衛くん 第20話
 浦上宗景からの圧迫を受ける龍野赤松家の赤松政秀は、将軍足利義昭との関係を深めるため、政秀の娘「さこ」を将軍の側室にすることを考えます。
 赤松本家の赤松義祐は、官兵衛の主君、小寺政職等に、京都へ向かう政秀の娘の身柄の確保を指示します。
 官兵衛達は、一旦は政秀の娘の身柄の確保に成功しますが、結局、上洛を許してしまいます(将軍家からの圧力があったようです)。

 上洛した「さこ」は、足利義昭の側室となり、将軍家と赤松政秀との関係は非常に密接なものとなります。

第19話 本圀寺の変

戦え!官兵衛くん 第19話
 三好三人衆は、美濃の元国主の斎藤龍興等と組んで、本圀寺の足利義昭を襲います。畿内には、まだ三好と内通する勢力もあったため、京都への侵入を許してしまいます。
 将軍の近臣、信長家臣や周辺の武将の協力で、三好軍を撃退することに成功しました。東播磨の別所氏も駆け付け、別所重宗も褒美をもらっています。この活躍により、別所重宗はますます信長寄りの立場を取ってゆくことになります。

 この事件で、仮住まいの本圀寺の防御の弱さが露呈してしまったため、信長は将軍のための邸宅を建設することになります。

第18話 畿内平定

戦え!官兵衛くん 第18話
 織田信長は、上洛後、足利義昭を15代将軍に就任させます。
 三好勢は京から駆逐され、信長が畿内を平定していきます。

 摂津の池田勝正が、信長に抵抗しますが、結局、池田勝正は信長に降伏します。しかし、池田勝正の能力を気に入った信長は、池田勝正を抜擢し、重用します。
 
 もっとも、畿内には自治都市の堺を初め、反信長方の勢力も強く、平定といっても表面的なものに過ぎませんでした...
 翌年には、その事実を思い知らされることになります。

リンク~落穂ひろい~を追加させていただきました。

 赤松氏を中心に播磨・備前・美作の歴史を解説されている風夢庵様のサイト「落穂ひろい」をリンクに追加させて頂きました(感謝)。

 赤松系の武将を書くなら必見のサイトですよ(*^-^*)

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/index.htm

第17話 信長上洛

戦え!官兵衛くん 第17話
 美濃の織田信長は、足利義昭を擁して永禄11年9月に上洛します。応仁の乱が戦国のファーストインパクトなら、信長上洛がセカンドインパクトですね。

 信長は(事前に周到に準備をしていたとは思いますが)、驚異的な速度で畿内を平定して行きます。
 信長派(=反三好三人衆派)の協力があったことは言うまでもありません。

 もっとも、信長派といっても、信長に賛同したというより、反三好で利害が一致したという感の強い集団ですので、一枚岩ではありません。この後、畿内は混沌とした情勢になります。

 なお、わかりやすいように信長派は、黄色の旗、反信長派は紫の旗で色分けします。
 「信長派」と書いていますが、この時点では「信長&義昭派」とした方がわかりやすいかもしれません。そうしていないのは、フキダシのスペースの関係です(^^;)

第16話 足利義昭流浪

戦え!官兵衛くん 第16話
 13代将軍足利義輝の弟、足利義昭は諸国を巡り、支援者を求めます。紆余曲折を経て、越前の朝倉氏の下へ流れ着きますが、朝倉氏は上洛に積極的ではありませんでした。

 足利義昭は、各地の大名に援助を求める書面を送っています。官兵衛の主君小寺政職、政職の主君の赤松本家、官兵衛の宿敵で龍野赤松家の赤松政秀達にも義昭の手紙が届きます。
 龍野赤松家の赤松政秀が、足利義昭と結んで、播磨守護の座を狙ったために、小寺政職・赤松本家は反義昭・反信長の立場をとることになります。

 ちなみに、元服前に出家した侍が、僧から還俗した場合は、毛が生えそろってから元服するという習わしがあったようです。義昭も元服するまで、逃亡してから結構時間がかかっています(*^-^*)

第15話 大仏殿炎上 その2

戦え!官兵衛くん 第15話
 三好長慶の死後、配下の三好三人衆と松永弾正が対立します。
 争いは三好三人衆方が優勢となり、追い詰められた松永弾正は、新興勢力の織田信長と結ぶことを考えます。
 
 戦場となった奈良の町では、織田信長が足利義昭を立て、松永弾正と結んで上洛するという噂が流れたと伝えられています。噂の火元は松永弾正でしょう(^^;)

 資料からすると、織田信長上洛前から松永弾正と接触していた可能性が高いように思えます。将軍足利義輝暗殺犯の松永弾正とつるんで義昭擁立を実行したとすると、織田信長も中々の食わせ物ですね。
 

第15話 大仏殿炎上

戦え!官兵衛くん 第15話
 播磨・備前・美作三国守護の赤松氏は、将軍足利義教を暗殺したため、一度、取り潰しにあいます。
 応仁の乱前後のドサクサにより、赤松氏は播磨・備前・美作を回復することに成功しますが、赤松氏を再興した当主の赤松政則と浦上、小寺達家臣団が対立し、赤松政則は追放されてしまいます。
 この時、家臣団に追放された赤松政則を助けたのが東播磨の別所氏と官兵衛の妻、光(てる)の実家の櫛橋氏でした。
 紆余曲折を経て赤松政則は、再び実権を取り返しますが、復権に功績のあった別所氏、櫛橋氏は、赤松政則に抜擢されます。
 別所氏は東播磨の守護代になり、その後の繁栄のきっかけとなります。

 しかし、赤松氏の勢力が衰えると、西からは尼子、東からは三好といった大勢力が侵入するようになります。
 この当時、東播磨(播磨で一番中央に近い)の別所氏は中央を支配する三好氏の傘下にありましたが、別所氏は三好氏からの離脱を考えていました。
 天下人三好長慶の死後、配下だった三好三人衆と松永弾正が対立し、別所氏は三好三人衆方につくことになりますが、東大寺大仏殿の戦いをきっかけに、裏で反三好勢力に接近していきます。

 別所氏の家老、別所重宗(別所重棟)は、いち早く織田信長に着目し、播磨に織田の勢力を引き入れます。

第14話 宇喜多直家の野望

戦え!官兵衛くん 第14話
 浦上宗景の重臣、宇喜多直家は暗殺の天才でした。
 宇喜多直家は備中の三村家親を短筒で暗殺させたため、三村家親の子、元親に攻撃されます。しかし、宇喜多直家の反撃により、三村軍は撃退されます。
 
 この時、浦上宗景は積極的に宇喜多直家を援助しませんでした。浦上宗景・宇喜多直家、両者の対立は深まっていきます。

 なお、従来の説に従って、宇喜多直家は浦上宗景の重臣として書いていますが、実際には上下のある同盟者という関係に近いのかもしれません。
プロフィール

kurokanproject

Author:kurokanproject
NHK大河ドラマ軍師官兵衛の主人公黒田官兵衛を紹介するマンガを描いています。
織田信長や羽柴秀吉といった歴史上の大人物、黒田官兵衛、小寺政職、赤松政秀、別所重宗といった播磨の武将達や、浦上宗景、宇喜多直家、荒木村重、松永弾正といった一癖も二癖もある連中が活躍します。

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ぜひ、第0話から読んでみてください(*^_^*)

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