
織田信長と本願寺との和睦調印を受け、天正8年(1580年)4月9日、本願寺の顕如は石山本願寺から退去し、紀州鷺森(和歌山市)に移ります。
一方、顕如の息子の教如は、和睦に反対し、強硬派の雑賀衆等と共に石山本願寺に籠ります。顕如と教如の対立は、後に本願寺が東本願寺と西本願寺に分裂する原因となります。
また、雑賀衆は、本願寺派と非本願寺派とに分裂していましたが(⇒
第148話)、本願寺派の雑賀衆の内部でも顕如を支持する雑賀孫一(孫市)達穏健派と、教如を支持する強硬派に分裂します。
雑賀孫一は織田信長に接近し、強硬派(反信長派)の土橋若太夫等と鋭く対立し、天正10年(1582年)1月に雑賀孫一が土橋若太夫を謀殺するに至ります。
一方、播磨の本願寺の拠点、英賀(姫路市)では、英賀領主の三木道秋が本願寺の強硬派と結び、抗戦を主張していました。前御着城主、小寺政職は御着落城後は英賀に逃亡しますが、時期的に見て、三木道秋等と合流して、最後の抵抗を試みていたのではないかと思われます。
秀吉は閏3月下旬ころから、英賀城への包囲を開始していたと思われ、網干(姫路)の領民に対し、人夫の徴発と資材の提供を命じた文書が残されています。
4月1日に英賀城の西の土居を占領した後、包囲を続けて様子を見ますが、英賀城内部の異変により、事態は急変します。
最後のコマで秀吉は「本願寺も門徒もわしが救う」と言っていますが、これ以降、ある時期までは、
秀吉は本願寺の守護者として行動し、後に本願寺勢力を天下統一に利用しようとしていくことになります。
(解説)
三木通秋達が「御報恩の戦いだ!」と言っているのは、本願寺が門徒(信者)に戦いに参加するよう求める理由づけとして、「『阿弥陀仏によって救済される道を教えてくれた親鸞の恩に報いるため』、仏敵信長との戦いに参加すべし。」との論理で説いていたためです。
「戦えば極楽、退けば地獄」といったスローガン(⇒
第219話)は、既に親鸞の教えから逸脱していますので、本願寺が公式に主張したことはないと考えられています。
スポンサーサイト